最終回・・・・・ | オジ記

最終回・・・・・

突然ではあるが

今回をもってこのブログは最終回である。

毎度、この不肖高橋の戯言にお付き合いいただいた読者の方々には

心より感謝申し上げている。


思えば、5月に極めて発作的に始めて以来およそ8ヶ月、

読者諸兄とともに風雪に耐え、艱難辛苦を乗り越えてきた歳月を思えば、

頬をつたう涙を禁じえないのは、不肖だけであろうか・・・


最終回に当たり、それにふさわしい話題をと考えたが、

もとより文才・教養ともに不足がちの不肖に思い浮かぶのは、

やはり自分自身の周りを取り巻く雑感しかない。


以下、少々長文になるが、今しばらくお付き合い願えれば、望外の喜びとするところである。




中国の詩人、劉芝延(?)の詩の一節に下記のようなものがある。


  

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  年年歳歳 花相似たり


  歳歳年年 人同じからず


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その心は、毎年毎年この梅ノ木は花が散っては咲き散っては咲き、尽きることなく咲いてゆく。

しかし、その梅ノ木の下を通り過ぎてゆく人々は、また来年帰ってくる人もいよう、通り過ぎたまま帰らぬ人もまた、いるはずだ。

花は、変わることなく咲き乱れてゆくのに、ただ人は、過ぎ行くままに帰らぬ人もいるだろう。人こそは、無常の中に、常に身をゆだねている。


およそ、こんな大意になろうか。


今、僕はこの詩句のなかの「花」を「企業」に

「人」を「社員(ひと)」という言葉に置き換えて考えてみようと思っている。


ひとは、ある一つの企業に青雲の志を抱きながら、そこで懸命に働いてゆく。

自分自身のため、愛するものたちのため、その志を成就せんがために。

しかし、何時しか人の心の中に何らかのちがう小さな焔が燃え始める時、人はその企業から離れてゆく。

あるものは、また帰ってくる時もあろう、しかしほとんど多くのものは、行きて帰らぬ遠い道のりを歩んでゆく。

人が生きてゆくというものの真実がそこにある。


しかし、それでも企業は存続してゆく。

半永久的に存続してゆく、否、存続しようとしてゆく。

そして、実際に真実存し続ける起業こそが、偉大な企業といえるのではなかろうか。

あらゆる人々の、それぞれの人生を背負いながら、身悶えながら、のた打ち回りながら、歯を食いしばって生き残ろうとする企業こそが、真の「偉大な企業」足りうる。


「ひと」と「企業」の関係の実相とは、かくの如きものかと考えている。


読者諸君、人生とは、常に自由であるべきであろう。

会社に縛られることなど、毛頭ないはずである。

だがしかし、己の人生のすぐ傍らに、ともに戦い抜いた会社とその社員にどうか思いをはせてほしい。


自戒をこめて、この最終回を、敬愛すべき読者諸兄に捧げる。


いつの日か、この広いネットの大海原でまたお会いできる日を願いつつお別れをしたい。


どうかお元気で、さようなら。



                             ・・・・・・・・・・・・・・・・ 2005年12月20日記